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静岡地方裁判所沼津支部 昭和61年(ワ)440号 判決

原告

長谷川俶子

外三名

右原告ら訴訟代理人弁護士

眞子伝次

重松彰一

森本雄司

被告

伊藤国男

伊藤克明

右被告ら訴訟代理人弁護士

望月保身

主文

一、被告らは、各自、原告長谷川俶子に対し、金二五〇万円及びこれに対する昭和六一年一二月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二、被告らは、各自、原告長谷川宜伸、同矢岸陽子及び同長谷川勝それぞれに対し、各金八三万三三三三円及びこれに対する昭和六一年一二月四日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三、原告らのその余の請求を棄却する。

四、訴訟費用は、これを四分し、その三を原告らの負担とし、その余は被告らの負担とする。

五、この判決は、原告ら勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1  被告らは、各自、原告長谷川俶子に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六一年一二月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告らは、各自、原告長谷川宜伸、同矢岸陽子及び同長谷川勝それぞれに対し、各金三三三万三三三三円及びこれに対する昭和六一年一二月四日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行宣言。

二、請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二、当事者の主張

一、請求原因

1(当事者)

(一)  亡長谷川泰三(以下、「泰三」という。)は、大正一二年二月一三日生で、昭和三六年から昭和五二年まで三島市長の地位に就いていたものであるが、昭和六三年七月一七日死亡した。泰三の相続人は妻である原告長谷川俶子、長男である原告長谷川宜伸、長女である原告矢岸陽子、次男である原告長谷川勝の四名であり、右原告らの各相続分は、法定相続分に従って、原告長谷川俶子が二分の一、その余の原告らが各六分の一である。

(二)  三島東海病院(静岡県三島市原ケ谷字今井坂二六四番地一二所在。以下、「本件病院」という。)は、内科、外科、放射線科等を診療科名とし、病床数一二〇床、常勤医師四名程度を有する病院である。

本件病院は、昭和五四年に被告伊藤国男(以下「被告国男」という。)によって開設されたもので、昭和五九年一二月一四日以後の開設者は医療法人社団福仁会である。被告伊藤克明(以下、「被告克明」という。)は、昭和五六年秋から医師として本件病院に勤務し、昭和五九年から本件病院長の地位にある。

2(診療の経過等)

(一)  泰三は、昭和五八年七月六日、七日の両日、当時糖尿病を患っていた関係もあり、本件病院で総合的健康診断、いわゆる人間ドックによる検査(以下「人間ドック」という。)を受けた。右人間ドックを担当した医師は被告克明である。

(二)  泰三は、右人間ドックの結果、高血圧症、高脂血症、糖尿病の各疾病を診断された。

また、被告克明はその際の注腸検査(BE。肛門からバリュームを大腸に注入し造影透視を行う方法。)の結果、上行結腸に憩室を認めたほか、直腸に腫瘍を発見し、これを直腸癌と診断した。被告克明は、上行結腸に認められた憩室については無症状なので治療を要しないと判断したが、直腸に発見された癌性腫瘍については、更に大腸カメラ等による精密な検査を要すると判断したものの、右検査を行った事実はない。

被告克明は、人間ドックの結果発見された直腸の癌性腫瘍について、検査が終了した後もこれを泰三(泰三に直接告知することがはばかられる場合はその配偶者等)に告げることなく、かつ泰三に対し更に精密な検査をし、その結果に対応した治療または治療の勧告を何等なすことなく放置した。

(三)  泰三は、人間ドックの結果、被告克明から、糖尿病については生活をコントロールして治療する必要があるので、本件病院に入院するよう勧められて、昭和五八年七月一五日から同年八月六日まで入院して糖尿病の治療を受け、その後昭和六〇年四月八日まで三回にわたる入院と通院による治療を受けた。右治療期間中、主として治療を担当したのは被告克明であるが、被告克明はもとよりのこと、本件病院は一度として原告の直腸にある癌性腫瘍に対する精密な検査、治療を行ったことはない。

(四)  泰三は、昭和六〇年四月八日血便の自覚症状を訴え、同年同月一二日に本件病院に入院し、直腸及び肝臓右葉に癌性腫瘍のあることが診断され、同年五月一四日直腸及び肝臓右葉切除手術を受け、同年九月一一日退院した。

右直腸の腫瘍は、昭和五八年七月本件病院で発見されていた腫瘍が進行したものであり、肝臓右葉の腫瘍は右直腸腫瘍の転移したものである。

(五)  泰三は、その後も本件病院において術後の治療を受けていたが、本件病院の杜撰な医療体制、医療態度が明らかになるに従って本件病院に対する不信を強め、昭和六一年一一月一八日をもって本件病院で加療を受けることを中止した。

(六)  泰三は、同年同月二五日から沼津市所在の沼津医師会病院(以下、「医師会病院」という。)に通院し、化学療法による継続的な治療を受けていたが、昭和六二年一〇月九日医師会病院において、大腸ファイバースコープによる検査によって本件病院における手術の部位である断端吻合部の直腸癌再発と診断され、同年一〇月一四日医師会病院に入院、同年同月二九日直腸切除術、人工肛門造設術の各手術を受け、同年一一月五日退院した。なお、泰三は、同年九月一六日医師会病院で左鼠径部ヘルニア根治のための手術を受け、昭和六三年一月二〇日から同年五月三〇日まで浜松医科大学医学部附属病院に入院、同病院において、直腸断端吻合部再発癌、リンパ節、肺転移癌の治療を受けた。泰三は、同年六月七日更に直腸及びその周辺の浸潤が進行し、慢性肝炎を併発し、同年七月一七日死亡した。

3(被告らの責任)

(一)(債務不履行責任)

(1) 本件病院は、昭和五八年七月六日泰三との間で、泰三につき人間ドックをすることの合意をし、被告克明は右人間ドックを担当したのであるから、泰三は、法律上本件病院の開設者の地位にあった被告国男との間に人間ドックによる総合的健康診断の契約を締結し、被告克明が被告国男の契約履行補助者として原告に対する診断を担当したものである。

(2) 一般的に、病院が行う人間ドックは、これを依頼した者が病院または担当医から検査の結果発見された身体の異常を通知されまたは治療の勧告を受け、治療の依頼をすることを目的としているものである。

従って、本件病院(開設者被告国男)及び担当医師被告克明は、原告の人間ドックの結果原告の身体に異常を発見した場合は、これを泰三(泰三に直接告知することがはばかられる場合はその配偶者等親族)に右結果を通知し、適切な治療の勧告または治療の承諾を得る義務がある。

(3) しかるに、本件病院及び担当医師である被告克明は、人間ドックで泰三の直腸に癌性腫瘍を発見しながら、これを泰三に通告せず、かつ適切な治療の勧告もなさなかったばかりでなく、その後糖尿病の教育入院をさせながら、右直腸の癌性腫瘍に対しては何らの精密検査、治療等の対応をなさず、その義務を履行しなかった。

(4) よって被告らは債務不履行(作為義務違反)による損害賠償義務がある。

(二)(不法行為責任)

(1) 被告克明は、医師として、泰三の人間ドックの実施を泰三から依頼され、これを承諾したのであるから、誠実かつ適切な検査を行い、検査の結果身体の異常を発見した場合、これを泰三(泰三に直接告知することがはばかられる場合はその配偶者等親族)にその事実を告知し、さらに精密な検査または適切な治療の勧告をなす職務上の義務を負担している。

しかるに、被告克明は、右義務に違反し、泰三またはその親族に対し、右身体の異常の告知、適切な治療の勧告をなさなかった。

(2) 被告国男は、本件人間ドックの行われた昭和五八年七月六日以前から昭和五九年一二月一四日まで、本件病院の開設者の地位にあり、被告克明を本件病院院長として使用していたものである。被告克明の泰三に対する不法行為は、本件病院の事業である医療行為及びこれに附随する行為(人間ドック)の執行につき発生したものであるから、いわゆる使用者責任を負う。

(3) よって、被告克明は民法七〇九条により、被告国男は民法七一五条により、いずれも不法行為による損害賠償義務がある。

4(因果関係)

(一)  もし、本件病院ないし被告克明が泰三に対し、昭和五八年七月に行われた人間ドックにおいて発見された直腸癌またはその疑い(著しく癌腫瘍の蓋然性のあるもの)について、これを告知またはさらに精密な検査の勧めをなしているならば、泰三は癌患者として早期かつ十分な治療の機会を得ることができたのである。しかるに泰三はその治療機会、利益を喪失した。右治療機会、利益は法的保護に価する故人の権利であり、故人はこの権利を侵害されたものである。

(二)  また、泰三は、人間ドック後約一年九か月を経過して昭和六〇年四月被告克明によって(同人は既に人間ドックの検査結果を忘却していたのであるが)、進行した直腸癌及び転移した肝臓癌の診断を受け、本件病院で腫瘍切除手術を受け、さらに昭和六二年一〇月医師会病院において右手術の部位である断端吻合部の直腸癌再発と診断され再手術を受け、その後も各種の治療を受けたが、右癌腫瘍の進行が原因となって昭和六三年七月一七日死亡するに至った。

もし、泰三が昭和五八年七月当時直腸癌と告知され、またはさらに精密検査を勧められ、適切な治療機会を得ていたならば、故人はこれを根治することも不可能ではなかったし、少なくとも前述の経過を経て早期に死亡するに至らなかったことは明らかである。

人はみな健康でかつ一日でも永く、与えられた生命を全うしたい願いをもっているものであって、これは各個人の利益であり権利である。故人の延命の利益、権利は法的保護に価するものである。泰三は被告克明の医師としての義務怠慢(重大な義務違反)によってその延命の利益、権利を侵害されたものである。

5(損害)

被告らの債務不履行ないし不法行為によって泰三及び原告らの蒙った損害ははかりしれない。

しかし、人間ドックにおける被告らの過失と相当因果の関係にある、すなわち被告らが法的責任を負担すべき損害がいずれまでであるか、従前の判例からも必ずしも明確でない。

ただ、泰三の本件訴訟提起の動機は、三島市長在職中地域医療のため開設に積極的に賛成した本件病院において、本件の如き無責任な医療体制、医療態度がとられ、自らがその犠牲になったことに対し、裁判上事実関係を明らかにして、関係者の反省を促し、今後の地域医療の充実と住民福祉に寄与したい希望によるところが大きい。

そこで、原告らは泰三の慰謝料のみは請求するに止めるが、泰三の無念は言語に絶するものがあり、その精神的損害を慰謝するには金二〇〇〇万円が相当である。

6(結論)

よって、債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償として、被告らは各自、原告長谷川俶子に対し慰謝料金一〇〇〇万円、原告長谷川宜伸、同矢岸陽子、同長谷川勝のそれぞれに対し慰謝料各金三三三万三三三三円及びこれらに対する訴状送達の日の翌日である昭和六一年一二月四日から各支払い済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払義務がある。

二、請求原因に対する認否並びに被告らの主張

1  請求原因1(当事者)(一)、(二)の事実は認める。

2  同2(診療の経過等)について。

(一)の事実は認め、(二)のうち、直腸に腫瘍を発見し、これを直腸癌と診断したことは否認し、その余の事実は認める。直腸の所見につき精密検査を要すると判断したことは認めるが、それは癌性腫瘍を認めた上での判断ではない。

被告克明は直腸のX線検査として撮影した一四枚のフィルムのうち一枚に、正常と少し異なった陰影を認めた。その陰影について癌の可能性を全く否定できないと考えた結果、精密検査を要すると判断したが、早急に大腸ファイバースコープを行う必要という意味ではなく、この年代の患者に多くみられるところの、一年に一回の検査が必要であるという判断である。

(三)のうち、「癌性腫瘍」とあるを「人間ドックの際認めた陰影」と読みかえ、その余の事実は認める。なお、泰三の通院期間において、糖尿病についてはその専門医が主として診療に当たっていた。

(四)のうち、前段は、「直腸及び肝臓右葉切除手術」とあるを「直腸(低位)前方切除及び肝臓右葉切除手術」と読みかえて認め、後段は、肝臓右葉の腫瘍が直腸腫瘍の転移であることを認め、その余の事実は否認する。

(五)のうち、泰三が昭和六一年一一月一八日まで本件病院で治療を受け、その後は本件病院で治療を受けていないことを認め、その余の事実は否認する。

(六)のうち、泰三が医師会病院、浜松医科大学医学部附属病院において治療を受けていたこと、泰三の死亡の日は認め、その余の事実は不知。

3  同3(被告らの責任)について。

(一)の(1)の事実は認め、(一)の(2)の事実は、「身体の異常」とあるを「早期に検査若しくは治療を要する異常」と読みかえて認め、(一)の(3)のうち、泰三に糖尿病治療のための入院をさせたことを認め、その余の事実を否認し、(一)の(4)は争う。

(二)の(1)ないし(3)は争う。

4  同4(因果関係)の(一)、(二)は争う。

5  同5(損害)は争う。

6  被告らに対する訴状送達の日の翌日が昭和六一年一二月四日であることは認める。

7(被告克明の無過失)

(一) 検査結果の告知義務については場合を分けて判断すべきである。即ち発見された異常につき確診が得られかつ疑診された疾患につき治療法が確立されている場合はこれを告知すべきであるが、そうでない所見の告知は、医師の裁量にゆだねられるのが相当である。

これは本人に対しても親族に対しても同様である。配偶者等の近親者に告知した場合、それらの者の本人に対する態度から、本人に告知したと同様の結果となることが多いからである。

(二) また本件において考えなければならないのは、被告克明が抱いた疑いの程度である。泰三に対する人間ドックの際の注腸検査の際に被告克明が気付いた変化は粘膜の部分の高さ約一ミリメートル、長円の直径約二センチメートルの変化である。他方大腸癌は、ポリープ(腫瘍)が育って大腸癌となるという考えが支配的であったが、昭和五八年頃から大腸の粘膜が癌化してゆくことがあること、その場合扁平な病変となっているという考えを主張する研究者が現れてきた。被告克明はこの知識から、読取ったレントゲン写真の変化のうち最も危険な可能性のある「直腸癌疑」という所見をカルテに記載したのであるが、被告克明の判断では、この段階では右変化が直腸癌によるものであることの可能性は極めて低く、一、二か月を争って大腸ファイバースコープによる細胞診(これは相当苦痛を伴う検査である)を行わなければならないものではないと考えられた。更に人間ドックの結果、泰三には高血圧性心臓病、高血圧症、蛋白尿、高脂血症、高尿酸血症という心筋梗塞の危険因子が発見され、この治療は緊急に必要であった。

以上の点からすれば人間ドックの結果の指導として高血圧症やすでに発見されていた糖尿病の治療を緊急に行い、その他年一回程度の検査を指示した点に、医師としての過失はない。

(三) 被告克明が人間ドック時に一枚のレントゲン写真から読み取った陰影は径約二センチメートル、厚さ約一ミリメートルの粘膜の変化である。

右変化につき証人成田恒一は「腫瘍は見てすぐ分かった。」旨、証人水田正雄は「明らかな隆起性の大きな病変であった。」旨述べるが、これは誤りである。若し右両証人の述べるような腫瘍が存在したならば検乙第一、二、三、五、八、一一、一二、一三号証のいずれかに腫瘍像が認められて然るべきであるところ、これらの写真は被告克明が複数の大腸の専門家に見せた結果でも誰もが病変を読取っていない。右の事実は被告克明が一般の医師より優れた読影力を有していたことを物語る(これに加えて被告克明に当時発表されていた大腸の粘膜が癌化するという新しい知識があった点も評価される)。

被告克明が一般の医師程度の読影力を有していたとすれば、右一枚の写真から粘膜の変化は読み取らなかったであろうし、そうであるからといって過失責任を問われることはない筈である。優れた能力を有するが故に過失責任を問われるということは、法律の立場から相当とはいえない。

(四) 本件人間ドック後の泰三の入・通院経過は次のとおりである。

昭和五八・七・一五〜五八・八・六(入院)

主として糖尿病治療のための教育的入院。

昭和五八・八・一二〜五八・九・六(入院)

右第Ⅳ趾が壊疽となり、抗生剤とプロスタグランディンE1を投与。血糖検査等も行った。

昭和五八・一〇・一三〜五八・一〇・二七(入院)

右第Ⅳ趾壊死切断術施行。

その後糖尿病外来へ通院。

昭和五九・二・一四

肛門痛或いは肛門出血を主訴に外科外来を受診。直腸診の結果は異常なく、便潜血反応はプラス・マイナス。

昭和五九・一一・一〇〜五九・一一・二四(入院)

糖尿性網膜症、高血圧、痛風、高脂血症の治療。左心室の肥大を認めた。

その後内科外来へ通院。

右の経過から明らかなとおり、泰三は糖尿病、心筋梗塞といった内科系の疾患の治療のため本件病院を受診していたものであり、被告克明が自身の受持ち患者として診療したのは、痔の症状を主訴とする昭和五九年二月一四日のみであった。右二月一四日を含め、当時本件病院においては行政庁の指導もあり、自費で行った人間ドックの診療録は保健診療を行った右入通院の診療録とは別に保存され、この期間担当医の目に触れることがなかった。

医師は患者の状況を、診療録を見ることによって判断することが習慣となっている。毎日数十名の患者の診療に当たっていた被告克明もその例外ではなく、殊に前記のように人間ドック時に抱いた直腸癌の疑いも軽度のものであるとすれば、泰三という氏名の患者に接したとき、人間ドックの際の疑念を想起しなかったとしても、非難はできない。

(五) 被告克明に過失がないのであるから、被告克明を使用監督する立場にあった被告国男にも、不法行為責任はない。

8(因果関係の不存在)

(一) 昭和六〇年四月二五日の時点において泰三の肝臓癌は径四〜五センチメートルに成長していた。このことから泰三の癌は昭和五九年七月の時点で肝臓に転移していたと考えられる。

昭和五九年〜六〇年当時肝臓癌の診断のため最も進んだ方法として行われていた血管造影法によっても、腫瘍が径0.5センチメートル程度に進行しなければこれを発見することは不可能であった。そして大腸癌からの転移性肝癌の場合、切除率は一〇〜三〇パーセント、そのうち効果があったと判定される症例は五パーセント前後であるという報告が大半であり、治癒切除が成功した症例についても五年累積生存率は二五パーセント前後の報告が大半である。

右の点から被告克明が昭和五九年中に泰三の癌を診断し摘出手術を行ったとしても、泰三の死の結果を防ぐことは極めて困難であったものであり、仮に本件医療に過失があったとしても死亡の結果との因果関係を欠く。

(二) 泰三は昭和六〇年四月二五日の血管撮影において右肝動脈後枝より径四〜五センチメートルの乏血管性腫瘍(転移性病変)が発見された。

乙第一四号証記載のとおり癌の腫瘤の発育速度は指数関数的に増大することが指摘されている。そして癌腫瘤の径がaからbに発育するに要した時間をtとすれば、癌腫瘤が二倍に発育する時間(ダブリングタイム。DTと略記する。)は

DT=0.1×t÷(logb−loga)

の式によって求められる。

このことはある癌腫瘤について統計上DTが求められ、かつその径がbであった時が特定できれば、その径がaからbに発育するに要する時間が求められることになる。この時間tは、

t=DT×10×(logb−loga)

である。

大腸癌の肝転移については資料がないが、肺転移巣については一〇九日という発表がなされている。昭和六〇年以前においては、CT・エコー等による肝腫瘤の診断限界は径二センチメートルとされていたところ、肺転移巣につき発表されたDTを用いて径四〜五センチメートルで発見された泰三の肝転移巣が径一センチメートルの状態で存在した時を計算すると

logb=log4.5=0.653(4.5は4cmと5cmの平均)

loga=log1=0

t=109×10×(0.653−0)

=711

即ち昭和六〇年四月二五日の七一一日前である昭和五八年五月一〇日となる。

被告克明が人間ドックを行った昭和五八年七月時点では、泰三に、診断限界に達していないが、しかし致命的である径一センチメートル強の肝転移巣が存在していたと推認され、この点からして延命の可能性は否定される。

第三  証拠〈略〉

理由

第一、当事者について

請求原因1(当事者)(一)、(二)の事実は当事者間に争いがない。

第二、診療の経過等について

〈証拠略〉に当事者間に争いのない事実を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1、泰三は、昭和五八年七月六日、七日の両日、本件病院で人間ドックを受けた。

2、泰三には、痛風、糖尿病の既往歴があり、痛風で東静病院に通院していたが、体調が良くないこともあって人間ドックを受けたものである。

3、右人間ドックは、被告克明が担当医として実施したものであるが、検査項目は、内科、外科等全般に及ぶ総合的なもので、各種レントゲン検査、内視鏡検査、心電図検査等が行われた。

4、右検査中の大腸注腸検査において、被告克明はレントゲンフィルムの読影の結果、泰三の上行結腸部に憩室を認めたほか、直腸とS字結腸の移行部に長径約二センチメートルの楕円型状の隆起性の病変を認め、ドックXP検査レポート(甲第一号証の八)にそれぞれの部位、形状をスケッチしたうえ、「上行結腸憩室症、直腸癌疑、CF(大腸ファイバースコープ)要」と記載した。

5、右のうち、上行結腸憩室症については、無症状なので放置してもよいと診断されたが、直腸癌の疑いのある隆起性の病変については、大腸ファイバースコープ検査及び組織検査等の精密検査を要すべき状態であり、このころ精密検査を実施していれば直腸癌の確定診断が得られたと推認される。

6、しかるに、被告克明は、自らがレントゲンフィルム上直腸癌の疑いのある病変を認め、XP検査レポートにも「直腸癌疑、CF要」と記載しながら、これを失念したため、泰三本人やその親族にその旨告知したり、或は大腸ファイバースコープ等の精密検査を奨めたりすることは勿論、自ら泰三の大腸ファイバースコープ等の精密検査を実施することもしなかった。

7、泰三は、人間ドックによって、高血圧症、高脂血症、糖尿病等の診断を受け、特に糖尿病は軽症ではなかったことから教育入院することになり、同年七月一五日本件病院に入院して糖尿病関係の諸検査を受け、外来コントロールによる糖尿病の治療方針が決まったため、同年八月六日に退院した。

8、泰三は、その後も三回の入院(昭和五八年八月一二日から同年九月六日、同年一〇月一三日から同月二七日、同年一一月一〇日から同月二四日)を含めて昭和六〇年四月二日までの間本件病院で治療を受けてきたが、この間主に糖尿病、高血圧性心臓病、痛風、右第Ⅳ趾壊疽等の治療が行われ、被告克明も担当医の一人として診療にあたっていたものの、直腸癌について検査や治療は一切受けなかった。

9、泰三は、昭和六〇年四月八日血便の自覚症状を訴え、被告克明の診察を受けた。

被告克明は、同日直腸診の結果異常なしと診断したものの、泰三の希望で更に検査することになり、泰三は同月一二日本件病院に入院した。

10、同月一三日、本件病院の水田正雄医師(以下「水田医師」という。)が泰三の内視鏡検査を実施したところ、肛門から一三センチメートルの所に癌が存在し、癌は直腸の管の二分の一周以上に広がっていることが認められ、同月一六日被告克明が大腸注腸検査を実施したところ、直腸S字結腸移行部にりんごの芯様の病変が認められ、同月一九日、同月二五日に実施された血管撮影検査等により、肝右葉後区に転移性肝腫瘍が認められ、結局泰三は直腸癌、肝転移と診断された。

右直腸癌は甲第一号証の八にスケッチされた直腸癌様の病変とほぼ同じ部位にあった。

11、そのころ、水田医師は泰三の過去のデータを調べるため泰三の人間ドックの記録を調べたところ、甲第一号証の八及びその診断の前提となったレントゲンフィルムを発見したので、被告克明にその説明を求めたところ、被告克明は「直腸癌疑」と記載したことを失念したこと認めた。

12、同年五月一四日、本件病院において、被告克明が執刀医となり、水田医師らが助手となって、泰三の直腸S字結腸低位前方切除、肝右葉切除の手術が実施された。

この時点では、転移が単発であれば相対的根治的な手術で、根治度二と診断された。

13、泰三は、同年九月一一日に退院し、昭和六一年一一月一八日まで本件病院に通院したが、同年一一月二三日から医師会病院に通院するようになった。

泰三は、昭和六二年九月一〇日医師会病院に入院し、同月一六日左鼠径部ヘルニア根治手術を受け、同月二九日に退院してその後も通院加療を受けていたが、同年一〇月九日の大腸ファイバースコープ検査により直腸断端吻合部に癌再発と診断され、同月二九日直腸切除術、人工肛門造設術を受け、同年一一月三〇日退院した。

14、泰三は、昭和六三年一月二〇日から同年五月二九日まで浜松医科大学医学部附属病院に入院したが、レントゲン検査の結果大動脈周囲から左右総腸骨動脈周囲にかけてリンパ節転移と思われる所見が認められ、右肺にも転移巣が認められたため手術の適応なしと判断され、直腸癌術後、肝転移術後、糖尿病、食道静脈瘤、肺転移、皮下転移の疑いの診断で投薬治療等を受け、同年六月七日医師会病院に転院し、引き続き治療を受けていたが、腎不全状態となり慢性肝炎由来の肝性昏睡を併発し、同年七月一七日死亡した。

第三、被告克明の過失について

一、前第二認定の事実によれば、被告克明において、昭和五八年七月六日、七日に実施された泰三の人間ドックの際、大腸注腸検査のレントゲンフィルムの読影の結果、直腸癌の疑いのある病変を認め、大腸ファイバースコープ検査が必要と診断したのであるから、被告克明としては、自ら大腸ファイバースコープ等の精密検査を実施するか、或は泰三やその家族に他の適切な専門医療機関に受診するよう説明指導すべき医師としての注意義務があるのに、これを失念して放置した過失があることが明白である。

二、原告らは、検査結果の告知義務を主張し、他方、被告らは、検査結果の告知義務について、医師の裁量を主張しているので、念のためにこの点について触れておく。

前認定のとおり、本件では、人間ドックの段階における癌性腫瘍の疑いのある病変の発見後の処置の当否が問題となっているのであるから、この段階で必ず直ちに泰三又はその家族に「癌性腫瘍の疑い」と告知すべきとまでは断じ難いところであって、証人水田正雄の証言するように、いわゆる癌の告知、不告知の問題は精密検査等の結果癌の確定診断を得てから検討しても遅くないものと解される。

しかしながら、医師としては、人間ドックにおいて癌性腫瘍の疑いのある病変を発見した場合に、その段階で本人またはその家族にその旨告知しないという方針を選択して場合には、自ら精密検査を実施するか、或は他の適切な専門医療機関で受診するよう患者又はその家族に説明指導すべき義務があることは明らかであるところ、本件では被告克明において、泰三に直腸癌の疑いのあること自体を失念し、この点に関し泰三あるいは家族らに説明、指導をなした形跡が何らうかがえないのであるから、被告克明には右の点において義務違反があることは否定し難いところであり、その意味では本件はいわゆる癌の告知、不告知の問題についてどのような見解をとるかに無関係に医師である被告克明の過失が認められる事案である。

三、また、被告らは、被告克明が抱いた疑いの程度につき、人間ドック時の病変が直腸癌によるものであることの可能性は極めて低く、一、二ケ月を争って大腸ファイバースコープによる細胞診を行わなければならないものではないと考えられた旨主張するが、被告克明本人自身が、「一般的にはさらに精密な検査をすべきとは言える。泰三は大腸ファイバースコープをそのころやっていれば病変を発見できただろうと思う。」旨供述して早急な精密検査の必要性を自認しており、また「大腸カメラを至急やらなければならない状況であった。」旨の証人水田正雄の証言に鑑みても、被告らの右主張は到底採用できない。

四、更に、被告らは、被告克明が一般の医師程度の読影力を有していたにとどまればレントゲン写真から病変は読み取れなかった事例である旨主張し、被告克明もこれに副うかの如き供述をしているが、この点に関する被告克明の供述は、甲第一号証の八、証人水田正雄、同成田恒一の証言に照らし到底措信できず、被告らの右主張も採用の限りではない。

五、なお、被告らは、人間ドックの診療録は入通院の診療録とは別に保管され、泰三が内科系の疾患のため治療中には担当医の目に触れることはなかったので、被告克明が人間ドックの際の疑念を想起しなかったとしても非難できない旨主張するが、本件では人間ドックの直後の処置について被告克明の過失が問題になっているのであって、被告らの右主張は主張自体失当と言わざるを得ないが、そもそも人間ドックの診療録を入通院の診療録と別に保管するのであれば、人間ドックの診療録をコピーし、或は、その内容を転記する等して人間ドックによって得られた情報をその後における入通院の診療の資料となすべきは当然のことであって、被告らの右主張はこれをしていなかった本件病院の不適切な診療体制を自認する以外の何ものでもない。

第四、因果関係について

本件訴訟において、原告らは泰三の死亡について被告克明の過失との間に因果関係があるとまでは主張しておらず治療機会の喪失、延命利益の喪失を主張しているので、以下この点について判断する。

前認定のとおり、泰三には癌の外にも、高血圧症、高脂血症、糖尿病、痛風等の持病があり、その健康状態は良くはなかったものの、昭和五八年七月の人間ドック時の直腸癌は早期から少し進んだ段階であったこと、昭和六〇年四月の時点では相当進んだ段階で腸が狭くなる程度であり(証人水田正雄の証言)、一年九か月位放置されたことによって直腸癌が相当程度進行したこと、人間ドックにおいて肝転移を窺わせるような徴候は存在しなかったこと、人間ドックの直後に直腸癌について確定診断が得られていれば早期に直腸癌の切除手術が可能であるばかりか、仮に肝転移があってもより早期に発見されて手術することが可能であったと解されること、結果的には昭和六〇年五月時点での手術によっても再発は防げず、死亡するに至ったが、同年四月時点においても、当時の診断として転移が単発であれば根治度二と判断され、手遅れ状態と判断されたわけではないから、その約一年九か月前であれば、より根治の可能性の高い状態であったと考えられること、泰三の年齢、前認定の直腸癌等の手術、再発の経過等を考慮すると、人間ドックの直後に直腸癌の確定診断を得て手術が実施されていれば泰三は根治しうるとは断じ難いまでも少なくとも相当な期間延命することができたと推認することができる。

被告らは、人間ドックの時点で致命的な肝転移があったから延命の可能性はなかった旨主張するが、人間ドック時点での肝転移巣の大きさに関する被告らの主張は肺転移巣のデータに基づく抽象的な計算に過ぎず、肝転移が致命的であったとの点についての立証もないから、右主張は採用できない。

なお、喪失された延命利益については、その性質上仮定的な問題であるため厳密な期間を認定するのは困難であるが、慰謝料算定の基礎となる損害としては、前記の程度の推認で差し支えないと解すべきである。

してみれば、被告克明の前記過失と泰三の延命利益の喪失との間に相当因果関係があると認めることができるから、被告克明は民法七〇九条により、被告国男は民法七一五条により泰三の蒙った後記損害について賠償義務がある。

第五、損害について

被告克明の前記過失によって泰三が延命利益を喪失したことによる慰謝料の額について、以下考察する。

そもそも人間ドックは、疾病の早期発見と全身の健康状態の診断を目的として行なわれる総合的健康診断であるから、疾病、特に癌についてこれを疑わせる病変を発見した場合には、医師の指導により確定診断を得るための精密検査が(これを妨げる特段の事情のない限り)すみやかに実施されるべきことは論を俟たないところ、被告克明の医師としての基本的な注意義務を欠く重大な過失により泰三は精密検査の機会を奪われ、その結果直腸癌の手術が一年九か月程度遅れたもので、折角人間ドックを受診しながら、癌の早期発見の期待を裏切られ、血便という自覚症状が出るまで手術を遅らされ、その結果延命利益を侵害された泰三の無念さは察するに余りある。

これらの事情に加えて、泰三の死亡当時の年齢(満六五歳)、他の疾病の状態等本件記録上表れた一切の事情を考慮すると、泰三の精神的苦痛は金五〇〇万円をもって慰謝するのが相当である。

第六、結論

よって、被告らは不法行為に基づく損害賠償として、各自、原告長谷川俶子に対して金二五〇万円、原告長谷川宜伸、同矢岸陽子、同長谷川勝のそれぞれに対して各金八三万三三三三円及びこれらに対する訴状送達の日の翌日であることが当事者間に争いがない昭和六一年一二月四日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害賠償金の支払義務があるから、原告らの本訴請求は右の限度で理由があるのでこれを認容し、その余は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官秋元隆男 裁判官仲戸川隆人 裁判官古久保正人)

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